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最高裁判所第三小法廷 昭和56年(行ツ)30号 判決

茨城県取手市戸頭三丁目三二番二八号

上告人

金沢豊

右訴訟代理人弁護士

萩原剛

早瀬川武

萩原克虎

神奈川県平塚市松風町二丁目三〇番地

被上告人

平塚税務署長

山口智康

右指定代理人

古川悌二

右当事者間の東京高等裁判所昭和五四年(行コ)第六五号所得税更正決定等処分取消請求事件について、同裁判所が昭和五五年一一月一七日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立があった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人萩原剛、同早瀬川武、同萩原克虎の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、独旨の見解に立って原判決を論難するか、又は原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 横井大三 裁判官 環昌一 裁判官 伊藤正己 裁判官 寺田治郎)

(昭和五六年(行ツ)第三〇号 上告人 金沢豊)

上告代理人萩原剛、同早瀬川武、同萩原克虎の上告理由

一、控訴審判決は、租税特別措置法(以下単に措置法といい、昭和五三年法律第一一号による改正前のもの)第三五条一項の法律の解釈を誤った違法がある。

すなわち、控訴審判決はその理由二において、「措置法三五条一項の規定の趣旨及びその適用等に関する当裁判所の見解は原判決の理由説示の「二」の「1」及び「2」……に記載のとおりであるから、これをここに引用するとしている。

そして、右の点に関する原判決によれば、措置法第三五条一項の解釈として、文字どおり「居住の用に供している家屋」を譲渡した場合、すなわち譲渡時において現に居住している場合にのみ同条の適用があると解することは妥当な解釈ということができない。」としながら、更に「措置法三五条が適用されるのは生活の本拠として現に居住の用に供している家屋を譲渡した場合、又は譲渡時に近接する時期までこれを生活の本拠として居住の用に供しており……法律の適用上居住の用に供していると同視しうる場合に限られると解するのが相当である」としている。しかしながら、右の解釈は次のとおりその解釈を誤っているものである。

(一) まず措置法三五条の立法趣旨は、居住用財産の譲渡によって生じた所得は、通常その後の居住用財産の取得のために投下される場合が多いので、譲渡者のそれを容易にするためと右所得に課税するとその課税分だけ住居用財産価値が、減額し先ぼそりの状態が生ずるので、国民生活における住居生活程度の安定が阻害されることを阻止するところにその大眼目がある。

従って、右の制度の趣旨をより良く生かすために昭和五三年法律第一一号による措置法二五条が改正されたこともまた自明のところである。

(二) 一般的に国民の権利を拘束する国の刑罰権や、また国民の義務を追及する徴税権に関する諸法律規定は、原判決が指摘するとおりその解釈に当って、厳格性及び明確性が要請されることは当然のことであるが、右規定の除外規定はその規定の趣旨に従い、目的を達成するに適する極限まで解釈するとしても、その解釈方向に誤りがあるということは無いものというべきである。

そして措置法三五条は右に云うところの「規定除外規定」と目することが出来、従って原判決の同規定の解釈に当る厳格性、明確性というのはその解釈の指向性に誤りがある。

(三) 原判決は右指向性の誤りから頭初指摘のとおり、「措置法三五条が適用されるのは生活の本拠として現に居住の用に供している家屋……法律の適用上居住の用に供していると同視しうる場合に限られる」と解釈している。

しかし措置法三五条の文言上は「個人がその居住の用に供している家屋」と規定され、その居住の用に供していれば足り、必ずしもそれが生活の本拠であることまでも要件化されていないことが明らかである。

ただ同法施行令二三条一項は「……その者がその居住の用に供している家屋を二つ以上有する場合には、これらの家屋のうち、その者が主として居住の用に供していると認められる一つの家屋に限るものとする」として、原判決の結論を認容しうるような規定となっている。がしかし、この規定の趣旨はその文言からも明らかなとおり、「二つ以上有する場合」として、その二つ以上所有する場合を規定しているにすぎず、結局措置法三五条の居住の用に供している家屋は、生活の本拠に限るとは解釈しかねるし、むしろ単に居住の用に供していれば足りるとしなければならない。

そして、居住の用の供し方に関しては、事実の認定に委ねているというべきである。

(四) もしも、原判決のとおり生活の本拠として、居住の用に供している家屋に限るとすると(この場合は日常生活の主要部分が行なわれている場所を生活の本拠というべきか)、次のような場合にどうなるのか、一時的、断片的に観た場合と、長期的継続的に認識したときに、人が一般的に持っている居住家屋との意識との間に乗離が生じないであろうか甚だ疑問である。

(1) 従来居住してきた家屋(自己の所有で土地も所有している場合も含む)を大修繕のために明けて他に住居の用に供する家屋を借りて居住している場合に右修繕中の家屋は居住の用に供していない家屋となるのか。

(2) 季節労働者は一定期間都会に出て生活しながら収入を得ているが、その妻も(子供、親もいない)同様な労働者として田舎の家屋を戸閉りして都会で生活している間は、その者の田舎の家屋は措置法三五条のいう「居住の用に供している家屋」に該当しないのか。

(3) 労働者は転勤を命ぜられることが多々あるところ、右労働者が転勤のため一時転勤先に借家して移住し、従来の自己の所有家屋には正月とか、お盆とか、連休の日または気の向いた時だけ帰宅してこれを使用している場合やはり借置法上の居住の用に供している家屋に入らなくなるのか。

前例(1)(2)(3)の場合のいずれも断片的には日常生活の主体的住居は現に居住している借家であり、都会の住いであり、転勤先の住居である。しかし当時者本人は修繕中の家屋が、田舎の家屋が、転勤前の従来の家屋がそれぞれ自己の本来の生活の基点となって、それらがすでに自分の居住の用に供していない(措置法三五条の「居住の用に供している家屋」の供しているのは、供していない又は供しなくなったと判断される時まで供しているということができる)又は、供しなくなった家屋というように理解し、認容しているということは出来ないのである。借家は仮りの住いであり、都会の住居も転勤先の住いも一時しのぎの住いとしか考えないのが一般国民意識に合致し、この国民意識を無視した上に法律の解釈は成りたゝないのである。

(五) 以上の次第であるから措置法三五条一項の「個人がその住居の用に供している家屋」とは所有者又は所有者と生計を一つにする者が継続して居住する意思の下に従来これに居住し現在居住して使用している場合並びに将来に亘って居住すべく事実的支配をしている家屋というべきである。

すなわち、継続して居住する意思という主観的要素があって将来一定の時期に使用することが予定されていて、それ相応の事実的支配管理が行なわれている回帰的・潜在的居住の場合も、日常生活に使用されていて、対外的にもこれが明らかな本来的・顕在的居住の場合と共に「居住の用に供している家屋」ということになるのである。

そして通常は右にいう「回帰的居住」と「顕在的居住」は一体となっており、同居住は現代の複雑な社会でたまたま一的に分離しても、後日一体化されることが予定されている。そして右の「潜在的居住」が措置法三五条一項から除外されるとすると、この規定の適用を受けようとする国民は「潜在的居住」をひとたび前述の「顕在的居住」に戻した上でこれを譲渡することゝなり、右国民に不当な出捐を強いることゝなるばかりか、形式的な法の運用として国民の法運用に関する信頼を失わしめることゝなるのである。

(六) 右のような措置法三五条一項を解釈するとき、控訴審判決の指摘する上告人が本件土地建物を売却しようと考えるようになった昭和四九年九月ごろから翌年三月までが、主観的にその居住性を中止した時期であり、また客観的には、水道、ガスの供給を停止した昭和五〇年一月二八日がそれに当ることゝなる理けである。従って控訴審判決には、右措置法の解釈適用を誤ったものというべきである。

二、さらに控訴審判決は「当今通常の日常生活を継続するためには、電気の供給は水の供給とともに、最小限度の条件というべきであって電気の停止された家屋内において人間の居住を継続するということは通常考えられないから」として措置法三五条一項の「居住の用に供している」ことの要件として電気の供給が要求されるような解釈をしている。

確かに近代文明社会生活における電気の存在は、その不可欠のものであり、電気の供給の存在しない暗闇生活は考えられないところである。しかし同時に近時人の生活も多様化し、これにつれて居住の居住方法も変化しているのである。別荘を使用するとき、そこに食事の出来る設備があっても、これを主に使用せずに、他から食事を取寄せてまたは持参の簡便な食料で食事を済ませることも多々あるところであり、狭い借家にいるとき、昼間本来の持家に帰ってこゝで一日を過すことも屡あることであること容易に理解されるところである。

この事実から見るとき、単に電気の供給が停止された(控訴人本人の供述によれば、電気が付き、照明の用をなしていたことは、一、二審ともに一貫してのべているところである)一事を見て容易に「居住の用に供することを完全に中止した」と判断したことは、理に合わず、現代における経験則に違反した違法が存在するものと信ずる。 以上

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